吉川さおり 参議院議員(全国比例)

コラム

あれから10年-その2

2022年5月8日
  • 2012年4月総務委員会
  • 2012年4月総務委員会
  • 2012年4月加賀谷政務官

初めて私が委員会の理事に就いたのは、1期目も後半に入ってからの2011年1月。

理事といっても、常任委員会ではなく特別委員会で3人いる理事の末席のいわゆる3席理事が私の委員会理事としてのスタートだった。

1期目は2007年当選同期だけで30人以上おり、私は最年少議員。しかも、衆院からの鞍替え組を含めればそれ以上の新人議員を抱える会派だったことからある意味当然だったと思う。

初めて特別委員会の理事懇談会や理事会に出席したときは、「へぇ、これが理事会か」と発言の機会もない3席理事だったこともあり至極客観的に状況を観察したものだが、今の会派の状況に置き換えてみると困難だな、とも思う。

時系列は前後するが、今の会派の所属議員数では野党第一会派でありながら、予算委・議運委以外で複数の理事を出すことはままならず、初めてであってもその場に1人で臨まなければならないことを考えると気が重くなる。理事会の場で同じ会派の先輩の作法や手法を見て学ぶことができないまま、協議に臨まなければならないためである。

2011年9月、私は常任委員会である総務委員会の次席理事に選任された。1期目の6年間、ずっと一緒でとてもお世話になったかけがえのない先輩である故加賀谷元議員の下、多くのことを学ばせてもらった。

当時の参議院民主党は与党でありながら2010年の参院選で過半数を失ったため、ねじれ状態に置かれ、民主党会派単独では法案の審査に入ることも、採決することも、ましてや可決も何もできない状態だった。

委員会運営も今とはまったく異なり、日々の緊張感のみならず、ひたすら交渉し、頭を下げ続けるしかない状況でもあった。

理事会に臨む中、過半数のない与党筆頭理事は本当に大変だなぁ、と思っていたら、党内のさまざまな事情により、突如として加賀谷さんが総務大臣政務官となり、誰か別の先輩議員が総務委員会の筆頭理事になるかと思いきや、2012年4月、35歳の私が与党筆頭理事の任を務めることとなってしまったのである。

私より年齢の若い議員が会派に皆無だったため、初当選が私より遅い2010年当選組の議員を次席理事として、与党筆頭理事としての任をスタートすることとなった。

ただ、その最初が民主党の大臣2人に問責決議案が提出され、委員会を開くことすら困難を極める状況下で、政局的にも大きな意味を持つ法案審査と重なり、あれから10年経った今でも1期目で35歳の私をあの状況でよく与党筆頭理事にしたもんだ、としか思わない。

与党筆頭理事として初めての委員会運営は困難を極め、10年経った今だからこそ(ごく一部)言えるが、会派からは元々の合意事項だったのだから大臣2人に問責決議案が提出されていても総務大臣に対してではないのだからこの日以外は絶対に譲るな、当時の野党第一・第二会派からは問責決議案の処理の後であれば応じる、と完全な板挟み状態で苦悶しながら走り回った10年前のあの日のことは忘れられない。

結果として、当時の野党第一会派は欠席、でも第二会派は出席、発議者側の野党第一会派と同じ政党の衆院議員も出席という異例ではあったが、元々予定した日に趣旨説明が叶い、民主党大臣2人に問責決議案が出る中、総務委員会だけ前に進めることができたのは支えてくださった方々のおかげでしかない。

なお、当時の総務委員会すべての野党理事・オブザーバーの皆さんには今も感謝している。詳細は、機会があればもっと後に書きたいと思う。

10年前、あの日に趣旨説明ができていなければ、5月の大型連休前に当該法律は成立せず、当該法律に関わる事業関係もさまざま影響を受けたはずだが、あの時期の成立は実はあきらめていたとも後々聞かされた。

上手く進んだのは支えてくださった方々のおかげなのだが、当時、上手くいったからこそ、2期目以降の経験につながったのだと思う。

今も多くの方々に支えていただいていることを感謝しながら、これからも前を向いて歩いていきたい。