吉川さおり 参議院議員(全国比例)

活動記録

東京大空襲殉職者慰霊(隅田分局)

2025年3月14日

「死んでもブレスト(※)を外すな」

※ブレストとは、第二次世界大戦当時、電話交換機で使用していた送受器のこと。交換手の手を介して物理的に線をつなぎなおさなければ、当時の電話はつながりませんでした。

「死んでもブレストを外すな」は、電話局の交換手(主として女性)が、軍の重要通信でもあった電話回線を守るために職場で亡くなった際の合言葉です。この言葉は、電話回線を守るために死を覚悟して文字通り最期まで業務を続けた交換手の決意を表しています。

2025(令和7)年3月10日は、「死んでもブレストを外すな」と言われた東京大空襲から80年を迎えたその日です。

1945(昭和20)年3月10日未明の大空襲により、隅田分局で勤務中に殉職された31名の先輩の慰霊を行うとともに、再び平和を脅かす全ての行為を許さない決意をこめて、慰霊式に参加しました。

「死んでもブレストを外すな」逓信訓の意味を/慰霊碑(NTT石原ビル(旧隅田電話局))

NTT石原ビルの庭に、白い慰霊碑があります(写真1枚目)。1958(昭和33)年3月10日に建立されたこの碑は、大空襲の夜に猛火の中で最期まで電話交換の職務を遂行した殉職者を慰霊しているものです。

慰霊碑そばの由来書には次のように書かれています(写真2枚目)。

「この慰霊碑は、昭和20年3月10日未明の大空襲により当地一帯が焼け野原と化した際、電話局も全焼し前夜から勤務していた15歳を最年少とする電話交換手28名及び男性職員3名が最期まで職場を守り殉職された職員の霊と、関東大震災において殉職された男性職員2名の霊を慰めるとともに、二度とこのような悲劇の起こらないことを祈願して昭和33年3月10日に建立されました。慰霊碑右手前には吉川英治氏の自筆による碑文があります。 昭和59年3月10日 隅田電話局」

当時の電話交換手は主に10代から20代の若い女性でしたが、爆撃下でも重要な通信施設を守り抜くよう軍から要請されていたため、周囲が火に包まれても職場を放棄せず、最期まで「ブレスト」を握り続けたのです。

旧墨田電話局で生き残った元職員は、翌朝の現場の様子を手記にこう書き残しています。

「骨になった遺体が、壁際に頭を向け、庇い合うに重なり合っていた。何かを訴えているように思えて、『誰か一言でいいから何か言って』と叫んでしまった、と。慰霊碑のそばの石碑には、元職員の言葉が刻まれている。『平和の尊さを おろそかにしてはなりません そして 世界の平和こそが 最大最高の幸に つながる事を』」

なお、亡くなった電話交換手が28人と確認できたのは、残された財布のがま口の口金だったとされています。

当時、「逓信訓」の存在があったことを添えておきたいと思います。

出典:郵政省郵務局郵便事業史編纂室『郵便創業120年の歴史』(ぎょうせい、平成3年)139頁。

【引用ココカラ】
「昭和15年は、紀元2600年に当たる年ということで、紀元節の2月11日には詔書が、内閣からは告諭が発せられた。逓信省においては、訓諭が発せられ、逓信訓が制定されている。逓信訓は、

一、生ヲ 皇國ニ享タルノ歓喜ニ燃エ、至誠一貫逓信報国ニ邁進ス
一、勤労ヲ愛シ、智能ヲ磨キ、公益ノ増進ニ努力ス
一、禮節ヲ尚ビ規律ヲ重ジ、懇切正確敏速ヲ期ス
一、明朗ニシテ剛健、常ニ心身ノ鍛錬ニ努力ス
一、和衷協同総力ヲ発揮シ、皇運伸展ノ先駆タルヲ期ス

というもので、戦時における思想統制がさらに加速していたことが、ここにもうかがうことができる」
【引用ココマデ】

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